人形マニアのメモ帳

球体関節人形について思いついた諸々を記すブログ

白堊のPassage メモ

中川多理初のビスクドール白亜の肖像シリーズは私のビスクのイメージを変える不思議な人形でした。

よく人肌のような質感や発色への言及がなされるビスクではありますが、私にとってのビスクのイメージは皮下脂肪が薄っすら乗ったような柔らかな輪郭が出る素材というものが大きいウェイトを占めていました。

どちらかと言えばシャープな造形が好きな私はその脂肪が乗った柔らかさがあまり好きでなく、ビスクをあまり肯定的に評価していない。

 

しかし、今回の白亜の肖像シリーズは中川多理ドールのシャープな雰囲気がそのまま保たれつつ、柔らかさや同時に具えた今までに見たことのない雰囲気のビスク。

過去作のモデリングキャストの人形にない肌の艶かしさを感じる。

 

もう一つの不思議さは従来の表現を別の手法で再現する表現力とセンス。

 

モデリングキャストなら彫る削るなどで作れる細やかな線やシワはビスクだと窯で焼成する都合で出来ないようだ。

なので瞼やヘソの細かいシワや窪みのような複雑で繊細な造形はモデリングキャストと違う方法で表現しなければならない。

一見それらの細やかな表現は以前と全く変わらずにあるように感じるのだが、よく見ると他の手法に置き換わっている。

雰囲気はそのままに違う手法で表現する高い技術とセンスに驚くばかりである。

このような表現に容易に辿り着けるはずもなく、数多の試行錯誤があり、日の目を見ない多くの試作があったことがわかる。

 

しかし、腕自慢技自慢の作品なのではなく、表現の手段としての技であり、表現意図や人形の可愛さを実現させるために技術の研鑽がある。

 

限られた時間で技量や手法のほうへ目が向いてしまって表現そのものの素晴らしさに目を向ける余裕がなかったように思う。

しかし、それだけの情報量を持つ目新しさに満ちていたので仕方ない。

 

追記:新作の手法メモ

 

瞼のラインが太めになっていてモデリングキャストでやっていた微細な表現は絵付けで行なっている。

臍はシンプルで立体の薄い造形ながら、絵付けで立体感や奥行きを表現。

無彩色のものと比べるまで分からなかった。

 

眼は自作のものでないらしい。

視線が近作のモデリングキャストものと違っていることしか分からず、ギャラリーの方に伺って知る。

 

顔の骨格が素直なことや肌の色や瞳の力が少しおとなしいこともあって一般受けの良さそうな造形と感じたが、不思議とモデリングキャストの中川多理さんの人形よりも距離感があるように見えた。

 

人形の距離は高貴さや威厳を表現するものでもあり、恋月姫さんの人形は意図的に距離感を作っていますよね。

 

中川多理「夢の棲む街」人形展

薔薇色の脚プロトタイプシリーズ、薔薇色の脚になり始めた少女たちのシリーズの二系統の新作

 

双方とも戦慄するほどの説得力がある

かなり強めの嘘が混じった造形でありながらそれを感じさせないほどの自然さ、自然さに至るために尽くされた技量センス細やかな仕掛けの多さ

 

プロトタイプで最初に目を惹くのはお尻の肉の異常なボリュームだろう

尻が脂肪で肥大しているならダンサーとしての説得力に欠ける、かといって筋肉質であれば女性の魅力的な脚たり得ない

嘘が混じった尻肉表現であるのだろうが不思議と自然に見える

ここまで尻肉が豊かだと、座ったとき肉が重力に体重に押し潰されなければ不自然である筈なのにこの生き生きとはちきれんばかりに膨らんだ尻肉は不思議と座ってすら自然で体重に逆らえる力強さがあるように感じられる

 

そして足も素晴らしい

脚や尻を普通のサイズと見るなら纏足のように小さく萎んだ足だか、よく考えれば足こそ薔薇色の脚となる前よりずっと同じ大きさであったもので、その普通の大きさであった足が肥大した脚の先端についているのである

この視点でみると、脚や尻のボリュームや巨大さがより強調される

 

赤子のような上半身は猫背の姿勢に枝のような腕、枯れ果てたような肌と髪のカサついた風合いとくすんだ色

上下半身とも作品の描写そのままの人形

 

薔薇色の脚になり始めた少女たちは抜けるような白い肌に猫背、栄養を吸い取られ始め細くなった腕が印象的

それでいて、前回と同じく可愛らしい

 

お店の方に教えて頂いてようやく気づいたのだが、実は頬がこけている

設定の再現であるが、見る角度によって変わる人形の雰囲気をより複雑なものにする仕掛けとしても働いていてただ素直に設定をなぞるだけでない細やかさの一旦がここにも発見できる

 

また、可愛らしさ溢れる描き目や、冷たい雰囲気をまとう自作のグラスアイも不思議な魅力に溢れている

 

髪の貼り方も見逃せない

髪の分け目をスリットにして髪を埋め込んだものや分け目をギザギザにして貼ったものなど髪型や髪の材料に合わせて最適な貼り方の試行錯誤がなされているのだろう

そして、よく見ると髪の貼る位置がちょっと特殊な人形が混じっている

造形のバランスを取るため普通ならやらない位置から髪を貼る思い切りの良さがあるのだろう

 

私の好みだった人形は赤目のグラスアイの娘
薔薇色の脚となっていく途中で栄養が奪われ色素が抜けて眼の色が変化したような赤目と冷たい眼差し、不健康な抜ける白肌にそばかすの痕跡のような点々

私との間に距離を感じるような雰囲気がとても魅力的であった

薔薇色の脚(特装版サイズ)覚え書き

魅力的な脚とうち捨てられたかのように見向きもされない上半身という表現を人形としての可愛らしさを手放さずに表現している。

手が無いバージョンのほうが全体のバランスが良いように思うが、大元の物語のコンセプトを考えると手があるほうが正しい。

このようなものを見ると作品としての良さと、それはそれとして人形らしさが強いほうが自宅置きしやすいという「買われるのを前提とした作品」のジレンマを感じる。あくまでも見る側の都合で作る側はそれをどう受け止めているのかは知るよしもないが。

 

手が無い子のほうが表情や色味の枯れ感が薄いのは手が無いことで枯れ要素を満たしているからなのか、別の意図があるからなのか?

 

飢えた少女のような上半身と逞しい筋肉のついた大人の脚を破綻せずに組み合わせられる中川多理さんの未曾有の造形センスに驚嘆せずにはいられない不思議な作品群である。

手が無いほうがバランス良く見えると感じたのは上半身の造形をもとにした長い手が下半身まで伸びているため、たとえ脅威的なバランスで上手くいく造形であってもどこかアンバランスさを意識させてしまうからなのだろう。

 

大きく丸い腹部球が上半身と下半身の境目のバランスをうまくとっている装置として働いているのだろうが、原理的にそうなるのだろうと思いつつも実際にそれが何故出来ているのか不思議でならないし、他の作家に同じことが出来るのかもわからない。

 

三浦悦子 トルソーについて

トルソーのシリーズは作風の大きな変革がある。

一つは男性は男性らしくなり、成人は成人らしくなった。もう一つはテーマが明るくなった。

 

以前の作品だと少年の人形でも、かなり中性的で胸や股間の造形でようやく男だと分かるものばかりであった。

それがトルソーでは明確に少年は少年らしくなり、また意図的に避けていたとすら思える成人男性の容貌をもつ作品もある。

 

女性の作品については、時期により想定される年齢や顔の柔らかさが変化するので簡単には語れないが、やはり設定された年齢相応の顔立ちがより意識されているのではないだろうか?

 

また、オブジェとの融合というお馴染みの造形にしても、以前なら医療器具のような非日常に存在する物をモチーフに利用していたのに、今シリーズでは船や港のイメージや働く人々という日常そのものをモチーフにしている。

 

過去作が異端性を持つ自己のイメージや身体を受け入れる、あるいは認めて貰う儀式としての作品のように思え、近作のトルソーは自身の中に普通のもの日常のものを受け入れる儀式としての作品だと思える。

三浦悦子がそのように意図して造形したのかは分からないが、私にはそう見える。

 

三浦悦子作品についての覚え書き

イメージのシームレスな連続性を放棄しつつ、それでいて違和感なく調和した造形となる。これこそが三浦悦子作品の圧倒的なオリジナリティの源泉ではないかと思う。

 

「死の金月」を例にとると、上半身や左手の硬くその場に留まるような死体のイメージ、相反する下半身や右手の天に登るあるいは地面に吸い込まれて消えてゆくような儚く朧げに伸びるように消えてゆく死のイメージ。

普通の実力ある作家なら、硬い死か儚く消える死のどちらかのみをテーマにするであろうし、そのほうがセオリーとして散漫なイメージとならずバランスが良い造形となる。

しかし、三浦悦子は両方を造形に込め、バランスをとってしまう。

 

馬のオブジェに関しては特に異様である。

乳房を馬の耳に、馬の脚の雰囲気をヒトガタと融合させるため鰐足のように曲げる。

ここまでは分かりやすい。

骨盤の骨が張り出している造形は人や馬の肉体ではありえない不自然さであり、全体の造形を考えると無くても成立するばかりかバランスを崩す要因になりかねない。

その他にも全体的にどうやってバランスをとっているのか不明な部分が多い。

 

この他にも、下腹部の下にもう一度上腹部下腹部と続くような作品もある。

一見普通の泉鏡花オマージュ人形でも、臀部あたりの球や造形に不思議な箇所があったりする。

 

三浦悦子ハンス・ベルメールに連なる者として評価する声が少なからずあったが、身体の置き換え可能性をバランス感覚の源するベルメールとは全く違う方法論である。

 

このような不思議なバランス感覚は恐らく人形教室に通っていた時点で萌芽のようなものがあったはずで、普通の教室であればイメージの盛りすぎでバランスを崩すと咎められるように思う。

吉田良先生の教師としての非凡さが三浦悦子の才能を見抜いたのか、あるいは三浦悦子が注意を受けても曲げなかったのか。

 

どのような経緯にしろ、このような無二の作風が『矯正』されずに開花されたのは僥倖と言える。

「小鳥たち」について(続き)

前回よりも確度が低いように思えた考察、私の感情的な判断が強めな部分を前回の続きとして積み増してゆく。

 

中川多理の人形を知った以降の「小鳥たち、その春の廃園の」からの「小鳥たち」は山尾悠子にとって、ナラティブベースベースドメディシンとしての物語、自己の癒しを語る物語であったのではないか。

そして、自身の癒しの物語を女性読者へ向けたメッセージとして、また伊達男あるいは我々多くの男が片鱗として内在させている伊達男への痛烈な批判として在る物語なのではないだろうか?

 

墜落する小鳥、けしからぬ跳ね足と二度繰り返して語るほど重要なメッセージ。

猛禽や怪しの影と並列して語られる伊達男、そこから自由である小鳥。

 

そうであるならば、物語を正確に理解し物語を踏み越える事なく、それでいて独自の表現を盛り込んだ中川多理の人形が、山尾悠子のイマジネーションや思索をもたらし癒しをもたらせた奇跡がそこにあったことになる。

いちファンとしてこれほど嬉しくも誇らしいことはない。

もちろん、中川多理は癒してやろうなどという衒いなど一切持ち合わせていないだろう。人形としての余白ある表現と作家性を両立させた真摯な創作姿勢が生み出した奇跡である。

これが私の過剰な思い込みであったとしても、中川多理が作品を生み出すに至るほどイマジネーション豊かな小鳥の描写が、山尾悠子が人形を知って後に瑞々しさを増したのは紛れもない事実である。

 

少し話が逸れたので元に戻して、われら伊達男の視点で見ていきたい。

墜落する小鳥のイメージ、けしからぬ跳ね足、双方とも実際に反応するか否かは個々の性質に関わるが、我々男ならそれが情欲をそそるように精緻に研ぎ澄まされた表現であることを理解する。

山尾悠子は批判を行うには欠席裁判ではなく、我々伊達男を壇上に上げる必要があると考え、また同じ言葉の中にそれが叶わないものであると批判するため、非常に高度で練られた作家としての矜持を込めた渾身の表現としたのではないだろうか?

情欲し、その後に山尾悠子のメッセージとその強さに思い至った者は非常にばつの悪い気持ちになったであろう。

しかし、それこそが意図された批判そのもので伊達男たちが他人行儀に「わかったふう」な態度をとれなくしたい強い意志の現れなのだ。

 

今度は女性についての論考である。

廃園で小鳥に祝福されたかのような花冠の女学生、けしからぬ跳ね足を持っているかのような新妻。

彼女たちは小鳥が成り変わった姿、あるいは生まれ変わりの類なのだろうか?

おそらく違うというのが私の見解である。

なぜなら、伊達男たちから逃れられる者が超常の存在のみであるなら、山尾悠子にとっての癒しの物語として不十分と考えたからだ。

彼女たちは生身の人として産まれ、研究者としての強さや指輪を取り戻すしたたかさのように、伊達男の恣にならないけしからぬ跳ね足の力を持ち得た女なのではないか。

そして、そのような強さは現実の女性も持つものだと考えているのではないだろうか。

そうしてこそ、癒しの物語として成立できる。

また、そうであるならけしからぬ跳ね足の存在が女性へのメッセージでもある推測も成り立つのだ。

 

私の想像が多く含まれているものの、これだけの解釈と妄想の余地がある作品の深みだと思って頂ければ幸いである。

 

最後に未完の論考の話を少し。

老大公妃が聖母マリアのように被昇天すること、廃園にエフェソスのアルテミス像があることについての話。

マリア信仰はもともと聖書にない概念であり、源流を辿ればキリスト教伝播により廃されたアルテミスのような豊穣神、土地神の代替として信仰されたものである。

男の原理によって廃されない存在である豊穣神信仰、その属性を持ち合わせた老大公妃はけしからぬ跳ね足に連なる属性を持ち合わせた存在だと言える。

この辺りの話を真面目にやると長い宗教の授業が始まるので細かい話は一切やらず中途半端なまま終わらせていただく。

 

「小鳥たち」について

山尾悠子の短編、それに影響を受けて制作された中川多理の人形、その人形に影響を受けた続編、その続編を受けて制作される人形と、相互に影響を与えあい1冊の書籍となった「小鳥たち」について。

これも人形語りの一環と考えているので、中川多理が人形作品を制作して後の小説における小鳥の侍女たちの描写について解説しておきたい。

 

「墜落する小鳥たち」では可憐で繊細な存在でありながら、その性質はどのような存在からも侵略されたり奪われることのない不可侵なものとしてある。

空を飛べば猛禽に狙われ、屋内では伊達男に狙われるが、狙う側の望みは永遠に叶えられない。

墜落する小鳥たちというテーマは狙う側の望みの成就を意味しているようでいて、永久の自由落下により儚さと誰からも狙われることの無い不可侵さを併せ持たせたイコンなのだろう。

 

類似の描写は「小鳥の葬送」の冒頭にもある。

若々しくほっそりとした肢体や愛らしい顔立ちが伊達男たちの興味を惹いてやまないが捕まえられない。

「けしからぬ跳ね足」欲情の対象のほっそりした足、しかし同時に男の欲の世界に決して引き込まれない空へ飛び立つ足という多層的な表現。男たちはただ、列柱沿いの長い通路の遥か遠く、ほんの一瞬だけ小鳥の侍女を見るだけである。

一つの挿話、短編の冒頭と繰り返し語られる程に重要な描写である。

 

これは中川多理の人形から着想を得た描写だと思うのだが、いかがだろう。

人形とは存在そのもので完成した表現なのではなく、見る側から湧き上がる様々な感情や物語や自己の内面との語らいによって完成する相互性がある表現形態であり、相互性は他者から不可侵な人形と私だけのものである。

山尾悠子は侍女の人形との関係性の中で心のうちにあった少女観と、不可侵な人形の性質を融合させるに至ったのではないだろうか。

 

侍女の人形から着想を得たのはそれだけではない。67頁で少しも年を取らない侍女たちがほとんど眠らず食べない存在とされているのも人形の性質のようであるし、お仕着せ衣装をつきつぎ新調されていたのを最近は疎かになっているのも中川多理がアンティーク処理を施した衣装を人形に着せていることから産まれた描写だろう。