三浦悦子作品についての覚え書き
イメージのシームレスな連続性を放棄しつつ、それでいて違和感なく調和した造形となる。これこそが三浦悦子作品の圧倒的なオリジナリティの源泉ではないかと思う。
「死の金月」を例にとると、上半身や左手の硬くその場に留まるような死体のイメージ、相反する下半身や右手の天に登るあるいは地面に吸い込まれて消えてゆくような儚く朧げに伸びるように消えてゆく死のイメージ。
普通の実力ある作家なら、硬い死か儚く消える死のどちらかのみをテーマにするであろうし、そのほうがセオリーとして散漫なイメージとならずバランスが良い造形となる。
しかし、三浦悦子は両方を造形に込め、バランスをとってしまう。
馬のオブジェに関しては特に異様である。
乳房を馬の耳に、馬の脚の雰囲気をヒトガタと融合させるため鰐足のように曲げる。
ここまでは分かりやすい。
骨盤の骨が張り出している造形は人や馬の肉体ではありえない不自然さであり、全体の造形を考えると無くても成立するばかりかバランスを崩す要因になりかねない。
その他にも全体的にどうやってバランスをとっているのか不明な部分が多い。
この他にも、下腹部の下にもう一度上腹部下腹部と続くような作品もある。
一見普通の泉鏡花オマージュ人形でも、臀部あたりの球や造形に不思議な箇所があったりする。
三浦悦子をハンス・ベルメールに連なる者として評価する声が少なからずあったが、身体の置き換え可能性をバランス感覚の源するベルメールとは全く違う方法論である。
このような不思議なバランス感覚は恐らく人形教室に通っていた時点で萌芽のようなものがあったはずで、普通の教室であればイメージの盛りすぎでバランスを崩すと咎められるように思う。
吉田良先生の教師としての非凡さが三浦悦子の才能を見抜いたのか、あるいは三浦悦子が注意を受けても曲げなかったのか。
どのような経緯にしろ、このような無二の作風が『矯正』されずに開花されたのは僥倖と言える。