人形マニアのメモ帳

球体関節人形について思いついた諸々を記すブログ

「小鳥たち」について(続き)

前回よりも確度が低いように思えた考察、私の感情的な判断が強めな部分を前回の続きとして積み増してゆく。

 

中川多理の人形を知った以降の「小鳥たち、その春の廃園の」からの「小鳥たち」は山尾悠子にとって、ナラティブベースベースドメディシンとしての物語、自己の癒しを語る物語であったのではないか。

そして、自身の癒しの物語を女性読者へ向けたメッセージとして、また伊達男あるいは我々多くの男が片鱗として内在させている伊達男への痛烈な批判として在る物語なのではないだろうか?

 

墜落する小鳥、けしからぬ跳ね足と二度繰り返して語るほど重要なメッセージ。

猛禽や怪しの影と並列して語られる伊達男、そこから自由である小鳥。

 

そうであるならば、物語を正確に理解し物語を踏み越える事なく、それでいて独自の表現を盛り込んだ中川多理の人形が、山尾悠子のイマジネーションや思索をもたらし癒しをもたらせた奇跡がそこにあったことになる。

いちファンとしてこれほど嬉しくも誇らしいことはない。

もちろん、中川多理は癒してやろうなどという衒いなど一切持ち合わせていないだろう。人形としての余白ある表現と作家性を両立させた真摯な創作姿勢が生み出した奇跡である。

これが私の過剰な思い込みであったとしても、中川多理が作品を生み出すに至るほどイマジネーション豊かな小鳥の描写が、山尾悠子が人形を知って後に瑞々しさを増したのは紛れもない事実である。

 

少し話が逸れたので元に戻して、われら伊達男の視点で見ていきたい。

墜落する小鳥のイメージ、けしからぬ跳ね足、双方とも実際に反応するか否かは個々の性質に関わるが、我々男ならそれが情欲をそそるように精緻に研ぎ澄まされた表現であることを理解する。

山尾悠子は批判を行うには欠席裁判ではなく、我々伊達男を壇上に上げる必要があると考え、また同じ言葉の中にそれが叶わないものであると批判するため、非常に高度で練られた作家としての矜持を込めた渾身の表現としたのではないだろうか?

情欲し、その後に山尾悠子のメッセージとその強さに思い至った者は非常にばつの悪い気持ちになったであろう。

しかし、それこそが意図された批判そのもので伊達男たちが他人行儀に「わかったふう」な態度をとれなくしたい強い意志の現れなのだ。

 

今度は女性についての論考である。

廃園で小鳥に祝福されたかのような花冠の女学生、けしからぬ跳ね足を持っているかのような新妻。

彼女たちは小鳥が成り変わった姿、あるいは生まれ変わりの類なのだろうか?

おそらく違うというのが私の見解である。

なぜなら、伊達男たちから逃れられる者が超常の存在のみであるなら、山尾悠子にとっての癒しの物語として不十分と考えたからだ。

彼女たちは生身の人として産まれ、研究者としての強さや指輪を取り戻すしたたかさのように、伊達男の恣にならないけしからぬ跳ね足の力を持ち得た女なのではないか。

そして、そのような強さは現実の女性も持つものだと考えているのではないだろうか。

そうしてこそ、癒しの物語として成立できる。

また、そうであるならけしからぬ跳ね足の存在が女性へのメッセージでもある推測も成り立つのだ。

 

私の想像が多く含まれているものの、これだけの解釈と妄想の余地がある作品の深みだと思って頂ければ幸いである。

 

最後に未完の論考の話を少し。

老大公妃が聖母マリアのように被昇天すること、廃園にエフェソスのアルテミス像があることについての話。

マリア信仰はもともと聖書にない概念であり、源流を辿ればキリスト教伝播により廃されたアルテミスのような豊穣神、土地神の代替として信仰されたものである。

男の原理によって廃されない存在である豊穣神信仰、その属性を持ち合わせた老大公妃はけしからぬ跳ね足に連なる属性を持ち合わせた存在だと言える。

この辺りの話を真面目にやると長い宗教の授業が始まるので細かい話は一切やらず中途半端なまま終わらせていただく。