人形マニアのメモ帳

球体関節人形について思いついた諸々を記すブログ

白堊のPassage メモ

中川多理初のビスクドール白亜の肖像シリーズは私のビスクのイメージを変える不思議な人形でした。 よく人肌のような質感や発色への言及がなされるビスクではありますが、私にとってのビスクのイメージは皮下脂肪が薄っすら乗ったような柔らかな輪郭が出る素…

中川多理「夢の棲む街」人形展

薔薇色の脚プロトタイプシリーズ、薔薇色の脚になり始めた少女たちのシリーズの二系統の新作 双方とも戦慄するほどの説得力がある かなり強めの嘘が混じった造形でありながらそれを感じさせないほどの自然さ、自然さに至るために尽くされた技量センス細やか…

薔薇色の脚(特装版サイズ)覚え書き

魅力的な脚とうち捨てられたかのように見向きもされない上半身という表現を人形としての可愛らしさを手放さずに表現している。 手が無いバージョンのほうが全体のバランスが良いように思うが、大元の物語のコンセプトを考えると手があるほうが正しい。 この…

三浦悦子 トルソーについて

トルソーのシリーズは作風の大きな変革がある。 一つは男性は男性らしくなり、成人は成人らしくなった。もう一つはテーマが明るくなった。 以前の作品だと少年の人形でも、かなり中性的で胸や股間の造形でようやく男だと分かるものばかりであった。 それがト…

三浦悦子作品についての覚え書き

イメージのシームレスな連続性を放棄しつつ、それでいて違和感なく調和した造形となる。これこそが三浦悦子作品の圧倒的なオリジナリティの源泉ではないかと思う。 「死の金月」を例にとると、上半身や左手の硬くその場に留まるような死体のイメージ、相反す…

「小鳥たち」について(続き)

前回よりも確度が低いように思えた考察、私の感情的な判断が強めな部分を前回の続きとして積み増してゆく。 中川多理の人形を知った以降の「小鳥たち、その春の廃園の」からの「小鳥たち」は山尾悠子にとって、ナラティブベースベースドメディシンとしての物…

「小鳥たち」について

山尾悠子の短編、それに影響を受けて制作された中川多理の人形、その人形に影響を受けた続編、その続編を受けて制作される人形と、相互に影響を与えあい1冊の書籍となった「小鳥たち」について。 これも人形語りの一環と考えているので、中川多理が人形作品…

ヴァルマン王について

中川多理が癩王のテラスを題材にした連作「ジャヤ・ヴァルマン7世」「王の精神」「王の肉体」について語りたい。 美しい顔立ちに丁寧に整えられた髪、しなやかでありながら男性らしさも備えた肉体。そこに癩の斑点や脚から半身にかけてのヒビ割れのような血…

朽ち表現

中川多理の代表的な表現手法の一つである朽ちが作品ごとに違った表現意図があるように思える。 浅学ながら意図を把握できない作品も多々あるのですが、漫然と作家のシンボリックな表現を使用してブランディングするような方では無いので、私の理解が追い付か…

正しい鑑賞は正しいのか?

私の鑑賞スタイルをブログで発表する事の是非を自ら問うようなエントリーです。 唐突ですが、ゲームシステムやキャラクターデザインによって操作キャラクターの感情移入スタイルがコントロールされている事をご存知でしょうか? 1.ゲーム内にプレイヤーその…

批評:兎の胞衣を纏う子

私の感想は理屈ぽいので、どうしても前提知識の共有が必要であり、前回までのエントリーはその為に必要であった。 また、本エントリーも後の批評に必要な前提知識の要素を持つので面倒だがご容赦いただきたい。 胞衣を纏う子Ⅰ 中川多理blog https://www.kost…

なぜ関節を球体にするのか

前回の人形の動きと身体表現の続きである。 なぜ人形の関節を球体にするのか? モノコック構造であるから自重が減り、ボルトのように負荷が集中することもなく、内部骨格のように外殻との運動軌道の差を考慮する面倒も無くせる。 一つにはこういった技術的、…

人形の動きと身体表現

人形には二種類の身体の動き表現があり、二つは基本的に二律背反する表現となる。 一つは彫像のように筋肉の流れを直接表現する方法、もう一つは可動関節で動くイメージと実際に動かせる状態を与える方法だ。 可動関節を作る場合に筋肉が厄介な存在となる。 …