人形マニアのメモ帳

球体関節人形について思いついた諸々を記すブログ

ヴァルマン王について

中川多理が癩王のテラスを題材にした連作「ジャヤ・ヴァルマン7世」「王の精神」「王の肉体」について語りたい。

 

美しい顔立ちに丁寧に整えられた髪、しなやかでありながら男性らしさも備えた肉体。そこに癩の斑点や脚から半身にかけてのヒビ割れのような血管のような炎症にも見える肉体の崩壊を予兆させる赤み。

ヴァルマン王の美しさが爛熟を迎えた時期を表すような、中川多理の現時点での最高傑作とも言える作品である。

 

そして、醸し出す空気感がどことなく女性的な「王の精神」はファンならば心地よい馴染みのバランスであり、三体の中で一番好きという方も多いのではと思う。

 

「王の肉体」はどうだろう?

作品としては見事としか言えないが、普段の中川多理らしくない、恐らくこのテーマがなければ作られないバランスである。そのらしくなさが過剰さ故の結果であるように思う。

普段より強い筋肉描写、表情にしてもここまで強く表現しない、そして煌びやかな装飾、何から何まで過剰。

 

人形に対しての固定的なイメージを持たないよう、こちらの気持ちが入る余白がなんとか入るよう、ギリギリの調整がなされているかのような危ういバランスで成り立っているのではと思わせる。

 

特に不思議なのは原型にあたる王より可動部分が増え、腹が分割パーツになっているところだ。

不思議である理由の一つは筋肉がクッキリしているなら、可動パーツであると不自然さを感じやすくなる点。肉体より王のほうが腹分割に向いている。

もう一つは「癩王のテラス」作中において、肉体は寺院のバイヨンと同一のものになる、つまり静物となる肉体を表現するのに可動部を増やすのである。

あえて文章そのままに、かつ作りやすい姿にせず、バランスのとりづらい関節を増やす選択をする、これも過剰さを感じる。

 

一見不可解ではあるが、これこそ王の「肉体」を癩王のテラスを人形表現に写し取るのに必要な画竜点睛の表現だったのではと感じる。

 

関節を増やした一因として「肉体」は人形として表現すべきだという中川多理の矜持にあるのではないかと推測する。

像としてでなく、人形とするには固い筋肉描写を和らげ人形としての動きを持たせるために、むしろ関節を増やしてしまう必要があった。

 

もう一つは作品解釈そのものに由来するのではと推測する。

肉体こそ誰にも侵されない正しさを持つ不如意の存在である故に、関節という人形の自由さを王や精神よりも強く与える必要があったのではないか。

 

17日追記

最後にもう一つ、作品に三島の思想が深く反映されている点。

三島の強く過完成とも言える思想は自殺という結果をもたらした。

ならば、氏の正しさの根底にある肉体賛美も同様に過剰なものであり、それを作中で反映した王の肉体はまさに過剰であらねばならない必然があるのではないだろうか。

 

そして、中川多理自身が意図しない部分なので、ここで語るのはコンセプトに沿わない気がするがもう少し語らせてもらう。

作中にてバイヨンは老練老巧の熟練工ではなく、瑞々しい感性で王の真意を理解し妥協なく作ろうとする者に建立を託される。

人形である(王の)肉体は中川多理が癩王のテラスを深く読み込み、瑞々しい感性による解釈によって作られる。

また、過去の創作物より続く「肉体描写と可動関節との相克を止揚する試み」など様々な技術の積み重ね、妥協なき創作の結晶でもある。

 

中川多理はまさにバイヨン建立を託された若者と並立する存在となり、肉体=バイヨンを完成させたのではないだろうか。

 

 

朽ち表現

中川多理の代表的な表現手法の一つである朽ちが作品ごとに違った表現意図があるように思える。

浅学ながら意図を把握できない作品も多々あるのですが、漫然と作家のシンボリックな表現を使用してブランディングするような方では無いので、私の理解が追い付かないだけなのでしょう。

もっとも、分かったつもりのものでも私の勘違いがあったりするのでしょうが。

 

朽ちかたは様々である。

経年で風化したようなもの、あるいは朽ちの始点のようなものがあり、そこから水分が奪われ枯れ朽ちるように肉が落ち拡散するように広がるようなもの。

 

全体的なイメージを重視した朽ち表現では、胸部までの瑞々しく内臓の存在まで想起させるような肉体がシームレスに朽ちていき、中空のあるオブジェとしての肉体へと転換してゆくものが印象的。

胸部の内にもある肉体と中空の胸部、本来重ならない二つのイメージであり矛盾した表現であるはずのものが、だまし絵のように存在する。

少し穴が開いたようなものではこのようなイメージはあまり想起できない。

 

肉や骨の質感、構成物質をどのようなものと仮定して朽ちさせるのか、朽ちる原因を何とするのか、この点を細やかに観察してみるのも面白い。

 

 

正しい鑑賞は正しいのか?

私の鑑賞スタイルをブログで発表する事の是非を自ら問うようなエントリーです。

 

唐突ですが、ゲームシステムやキャラクターデザインによって操作キャラクターの感情移入スタイルがコントロールされている事をご存知でしょうか?

 

1.ゲーム内にプレイヤーそのものの分身現出させる

2.箱庭の人形を操作するような距離感

3.アニメの登場人物のような意味でのキャラクターそのもの(他者)を操作する

 

だいたい1から3までのスペクトラムのうちどれかに入るよう設計されています。

過去においては洋ゲーは1寄りが主流であり、本邦では2〜3が好まれやすい傾向があります。

ドラクエは2、ファイナルファンタジーは3寄りにデザインされていて、モンスターハンターは日本には珍しい1と2の間くらいに設計されていますね。

 

ゲームの体験をも設計するクリエイター側の緻密な計算によるものですが、これらは必ずしもプレイヤーが遵守すべきものではありません。

モンスターハンターなどは結構な数のプレイヤーが3と2の間としてプレイングをされているのが観察されます。

これはクリエイターの創作意図を蹂躙した不敬にあたるのでしょうか?

わたしはむしろ、このようなクリエイターの意図を超えた体験の豊かさを許容する事こそ大衆文化の良さだと思っています。

そういう意味では正しいスタイルを考察する試みはある種の野暮さ、他者の体験の邪魔となりうる。

 

人形にしてもそうだと感じています。

人形の良さとは見る側、所有者側に豊かで自由な体験をもたらす点にあると思っていますので、本質的には私のブログは野暮であります。

 

では何故このようなブログがあるのかといえば、私にとって愛する行為は「知りたい、理解したい」という思いと、その中で試行錯誤を行う営為の中でしか表せない特性に由来するわけで、こうする事しかできないのです。

 

私はアスペルガー症候群の診断を受けていまして、その特性から来るものなのでしょう。

よって、こういう心性は変えられるものでなく、ずっとこのような形で好きである事を表明していくしか無いのです。

 

このエントリーは独白のようなものなのでツイッターでの告知は無しにしました。

批評:兎の胞衣を纏う子

私の感想は理屈ぽいので、どうしても前提知識の共有が必要であり、前回までのエントリーはその為に必要であった。

また、本エントリーも後の批評に必要な前提知識の要素を持つので面倒だがご容赦いただきたい。

 

胞衣を纏う子Ⅰ 中川多理blog

https://www.kostnice.net/dolls?lightbox=dataItem-ip3qanmv1

前回までの話にある肉体描写が可動関節の動きを邪魔する問題を思い出して頂くと、表現の幅を広げる研究の跡が垣間見える。

流れのある肉体の描写を邪魔しない奇形の脚、胴の流れを邪魔しないよう、関節とのバランスが絶妙にとられている。それでいて脚の肉体描写が躍動感が損なわれないラインを保っているのである。

腕にも別の表現研究の結果がある。

球体関節の文脈を所与のものとする者達なら、腕に球だけが取り付けられた状態から、その先にある虚空に幻想の腕の動きが感じられないだろうか?

つまり、単なる欠損表現ではなく肉体描写と球体関節の双方の動きを両立する為の試みが脚、腕ともになされているのである。

これにより、兎の躍動感を見事に球体関節人形という表現形態の中に落とし込んでいる。

C-elegansのシリーズもおそらく、反った背と球体関節という肉体の流れと球体関節の両立という表現の幅を広げる試みの一環の作品であると思われる。

 

このような中川多理の表現の試みが自明のものとして理解されていないのは、技術自慢、表現力自慢をただ行うだけの作家でなく、アーティストとしての表現欲求が並行して存在して、あくまでもアーティストとして作品を仕上げているからではないだろうか?

また、皆がそのアーティスト性に魅了されている証左でもある。

なぜ関節を球体にするのか

前回の人形の動きと身体表現の続きである。

 

なぜ人形の関節を球体にするのか?

モノコック構造であるから自重が減り、ボルトのように負荷が集中することもなく、内部骨格のように外殻との運動軌道の差を考慮する面倒も無くせる。

一つにはこういった技術的、実用的な扱いやすさがある。

 

これこそ本題であるが、もう一つは審美性の面である。

球体関節は可動関節と筋肉描写とのバランスをとるのに非常に役立つ。

唐突だが子供騙しの手品で親指が離れるマジックをご存知だろう。

あれは人間が半ば覆い隠されたものを自動的に補正で連続性のあるものと認識する認知機能に依存している。

 

球体関節も同じ認知機能を利用した表現なのである。

本来ならあり得ない筋肉の流れを球という「覆い」のお陰で自然な流れのように人は誤認してくれる。

つまり、これにより実際の動きとは別に認知機能の面でも「動いている」をイメージさせやすくなる。

球を大きく不自然にすればするほど筋肉の流れをカバーする力は大きくなるが、嘘が許容範囲を越えてしまうとかえって不自然さは増す。

球を目立たないようにすれば肉体としての自然さは増すが筋肉の流れのカバー範囲が狭くなり、固い人形となってしまう。

力量がある作家の球体関節は本人の創作意図に沿った「固さ〜動きの自由度」のバランスをとりベストの球体関節をちゃんと作っている。

 

人形の動きと身体表現

人形には二種類の身体の動き表現があり、二つは基本的に二律背反する表現となる。

一つは彫像のように筋肉の流れを直接表現する方法、もう一つは可動関節で動くイメージと実際に動かせる状態を与える方法だ。

 

可動関節を作る場合に筋肉が厄介な存在となる。

何故なら生身の肉体は腕を捻れば腕の筋肉だけでなく、連動して肩や背中の筋肉が動く。ポーズを変えれば全ての筋肉がしなやかに連動して流れを変え、直立時とは全く違う様相を見せる。

可動関節の人形の筋肉は動かないので下手に筋肉を描写してしまうと、一つのポーズのみ自然に成立するが、ポーズを変える毎に不自然な筋肉の流れが生まれ非常に不恰好になってしまう。

比較的整合性がとれる直立のポーズを基準に筋肉描写をする方法はある。しかし、直立は筋肉の流れが失せた静的な姿勢であり、動きの無い固い体となり、可動関節を付けても動くイメージが減衰してしまう。

 

かといって、全く筋肉描写をしないと腕はただの丸い棒でしかなくなり生身らしさは失せてしまう。よって可動関節を作る場合は関節と肉の流れの矛盾が生じない程度に控えめに筋肉を付けるのがセオリーと言える。